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柳宗悦(1889-1961) 1954 年頃

柳宗悦と日本民藝館

 日本を代表する思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし)は、1889年に現在の東京都港区で生まれる。1910年、学習院高等科卒業の頃に文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。宗教哲学や西洋近代美術などに深い関心を持っていた柳は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業する。その後、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。1936年、日本民藝館が開設されると初代館長に就任。以後1961年に72年の生涯を閉じるまで、ここを拠点に、数々の展覧会や各地への工芸調査や蒐集の旅、旺盛な執筆活動などを展開していった。晩年には、仏教の他力本願の思想に基づく独創的な仏教美学を提唱し、1957年には文化功労者に選ばれた。


雑誌『白樺』 李朝陶磁特集号 1922 年

『白樺』時代の柳宗悦

 柳宗悦は、1889年に柳楢悦と母勝子の三男として東京に生まれる。父楢悦は海軍少将で、和算家としても知られていた。また、母勝子は嘉納治五郎(教育家で講道館柔道の創始者)の姉である。1910年、志賀直哉・武者小路実篤ら学習院の仲間達と文芸雑誌『白樺』の創刊に参加する。人道主義・理想主事・個性尊重などを唱え、大正文化の中心的担い手となった『白樺』。柳は持ち前の語学力や美的感性を生かして、同誌の中心的メンバーとして活躍した。英国人バーナード・リーチともこの頃に知り合う。心霊現象、キリスト教神学などに関心を深め、西欧近代美術の紹介にもつとめた柳は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業。この頃より、神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクに傾倒する。みずからの「直観」を重視するブレイクの思想は、芸術と宗教に立脚する独自な柳思想の基礎ともなった。そして、これを契機にして、柳の関心はしだいに宗教的真理と根を同じくする「美」の世界へも向けられていった。


朝鮮民族美術館展示室 1924 年撮影

柳宗悦と朝鮮

 1914年、声楽家中島兼子と結婚して千葉県我孫子へ転居。生涯の友となる濱田庄司との交友もこの地で結ばれる。同年、韓国で小学校教師をしていた浅川伯教が朝鮮陶磁器を手土産に柳を訪ねた。その美しさに魅了された柳は、1916年以降たびたび朝鮮半島へ渡り、朝鮮工芸に親しむようになった。そして、民族固有の造形美に目を開かれた柳は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判した。1921年、日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催。1924年にはソウルに「朝鮮民族美術館」を開設していった。関東大震災を機に、柳は京都へ転居した。盟友・河井寛次郎との親交もこの頃に始まった。そして、民間で用いられる日常品への関心は、1924年から始まった木喰仏調査の旅や、濱田が英国より持ち帰ったスリップウェア、また京都の朝市を中心に開始された下手物の蒐集などを契機として、「民藝」の思想へと結実していったのである。

雑誌『工藝』第1 ~ 3 号と、1 年分を納める帙 芹沢銈介装丁

民藝の発見

 下手物(げてもの)とは、ごく当たり前の安物の品を指していう言葉として、朝市に立つ商人たちが使っていたものであった。この下手物という言葉に替え、「民藝」という言葉を柳をはじめ濱田や河井たちが使い始めたのは、1925年の暮れである。「民」は「民衆や民間」の「民」、そして「藝」は「工藝」の「藝」を指す。彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかった民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった大切な美の相が豊かに宿ることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのであった。 また、柳は独自の民藝美論を骨子とした初の本格的な工芸論『工藝の道』(1928年刊)を著し、工芸美の本道とは何かを説き、そして来るべき工芸のあり方を示した。また、1931年には、雑誌『工藝』を創刊する。この雑誌は、「暮らしの美」を啓発する民藝運動の機関誌として重要な役割をはたしていった。


无有好醜(むうこうじゅ)書・装案 柳宗悦 1950 年代

民藝美論と直観

 自然の恵みや伝統の力といった、他力をも味方につけた工人(職人)の虚心な手仕事によって生まれた民藝品がなぜ美しいのかを、柳は「民藝美論」と呼ばれる独自の理論によって説いた。他力の力をも受け取ることによって、はじめて生まれ出るものであると説くこの独自の美論は、仏教の他力本願の思想になぞらえて、「美の他力道」という言い方もされる。なお、柳が生涯をかけて構築したこの仏教思想に基づく新しい美学は、柳自身の美的体験に深く根ざすものであった。柳は美の本性に触れるには、何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。「直観」とは、人間が本来持っている美を感受する本能的な力であり、知識や先入観によるのではなく、囚われのない自由な心と眼によって純に対象物を観ることである。この「直観」の重視は、初期の思索より一貫している柳の最も特徴的な方法論で、生涯にわたる思索と行動の原理となった。

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