• 沿革
  • 柳宗悦と日本民藝館
  • 日本民藝館の活動
  • 日本民藝協会と各地の民藝館
建築中の日本民藝館 1936年

沿革

 日本民藝館は、「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民藝運動の本拠として、1926年に思想家の柳宗悦(1889-1961)らにより企画され、実業家で社会事業家の大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年に開設された。現在の経営母体は公益財団法人で、登録博物館として運営。「民藝品の蒐集や保管」「民藝に関する調査研究」「民藝思想の普及」「展覧会」を主たる仕事として活動している。初代館長には柳宗悦が就任し、二代目は陶芸家の濱田庄司(1894-1978)、三代目は宗悦の長男でプロダクトデザイナーの柳宗理(1915-2011)、四代目は実業家の小林陽太郎(1933-2015)、そして現在はプロダクトデザイナーの深澤直人が館長職を継いでいる。当館には柳の審美眼により集められた、陶磁器・染織品・木漆工品・絵画・金工品・石工品・編組品など、日本をはじめ諸外国の新古工芸品約17000点が収蔵されており、その特色ある蒐集品は国の内外で高い評価を受けている。


日本民藝美術館設立趣意書 1926年

美術館設立の夢

 1925年、民衆の用いる日常品の美に着目した柳宗悦は、濱田庄司や河井寛次郎らとともに無名の職人達が作った民衆的工芸品を「民藝」と名付けた。そして、1926年には陶芸家の富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。民藝品の公開・展示のみならず、調査・蒐集や保存・管理するための美術館施設の設立計画を始動させていった。もっとも、柳の美術館設立の夢はそれ以前からすでに育まれていた。早くは1917年に発表された白樺美術館建設計画であり、柳は『白樺』同人としてこの活動の中心メンバーとなり活動。施設の完成までには及ばなかったが、私設美術館の先駆けとなった。1924年には「朝鮮民族美術館」(現ソウル)を朝鮮王朝の王宮であった景福宮内に開設している。これは主として朝鮮時代に作られた無名の職人の手になる民衆の日常品の美を紹介するための小規模な美術館で、日本民藝館の原点ともいえる存在である。


博覧会出品『民藝館』1928年

民藝館設立に向けて

 朝鮮民族美術館の実現を契機として、民藝館設立に向けての運動が本格化していった。まず、1928年に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に、民藝運動の同人と諮(はか)り「民藝館」を出品した。これは都市に住む中産階級に新しいライフスタイルを提示するためのモデルルームで、その什器には同人作家の品や日本各地で作られた民藝品が選ばれた。博覧会終了後は、民藝運動の支援者であった実業家の山本為三郎がこの建物や什器を買い上げ、大阪・三国の山本邸内に移築して「三国荘」とした。また、この頃柳は再建中の東京帝室博物館に対して、蒐集した民藝品の寄贈と展示室の設置を申し入れている。しかし、この提案はあえなく断られて、これを機に、官に頼らない美術館設立の決心を固めることとなった。なお、1929年に訪れたスウェーデンの北方民族博物館やスカンセン(野外博物館)も、柳の美術館構想 に大きな影響を与えていった。


日本民藝館旧大広間「琉球織物古作品大展観」にて 1939年

日本民藝館の開設

 1931年、浜松に日本民藝美術館を開設する。二年余りの活動であったが、民藝館設立のための大切な準備となった。民藝思想の普及や地方の手仕事の振興などに力を注いだ柳は、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会を1934年に発足させる。そして、いよいよ機が熟し、1936年に「日本民藝館」が東京・駒場の地に開設されると、柳は初代館長に就任して、ここを活動の拠点として様々な展覧会や調査研究を展開していった。民藝館設立以後の柳の主な活動としては、日本各地への工芸調査や蒐集の旅、沖縄への工芸調査と言語政策(方言)をめぐる論争、アイヌや台湾先住民の工芸文化の紹介、茶道改革への提言などがあげられよう。また、民藝運動に参加したバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介、棟方志功、黒田辰秋などの工芸作家は、実用を離れた当時の工芸の在り方に一石を投じるなど、日本の近代工芸界に大きな流れを作っていった。

ページの先頭へ